古代ギリシアにペリクレスという人がいました
ペリクレスの時代はアテネの黄金時代であると言われています
ペリクレスは教科書で名前を見かけるぐらいですが、どんな人だったのでしょうか
ペリクレスとは
ペリクレスは、貴族の家に生まれ音楽、修辞学、哲学の英才教育を受けました
また、ペリクレスが育った時代は、アテネはペルシアの攻撃を受けていた時代で、デロス同盟により反撃機をしていた時代でした
ペリクレスは、その後政治に携わることにより、民主主義を擁護する立場をとります
この時期、ペルシア戦争に勝利したこともあり、ペリクレスは、アクロポリスの建設によりアテナ市民の懐を潤し、文化・芸術を援助しました
その後、デロス同盟から離反したスパルタを中心としたペロポネソス同盟との戦争の中死去します
ペリクレスの政治とは
ペリクレスが政治に関わり始めた頃、ライバルとなる政治家にキモンがいました
キモンは貴族派として富の再配分を行うなどを行なっていましたが、ペリクレスは、市民の政治参加を促していました
キモンが出征している間に、議会の実権を握ったペリクレスは、翌年陶片追放により、キモンを政治の舞台から追放します。
ペリクレスは、民主主義を擁護した他、キモンの富の再配分からアゴラ(市場のようなもの)による売買による富の流通を行い、市民の政治への関与を促しました
アテネ黄金時代の裏側
ペリクレスの時代はアテネの黄金時代とも言われますが
この時期は、ペルシアの脅威が一段落し、戦いが一息ついた時期でもありました
アテネはペルシアの脅威に対抗するためのデロス同盟の盟主でありましたが、同盟に加入するとしは兵船を出すか、それができない場合はお金を収めることとなっていました
アテネは、資金を管理していたデロス島から管理場所をアテネに移し、その資金を使いアクロポリスや文化の発展を援助したと言われます
また、アテネは元来交戦的な都市であったと言われており、これを問題視する年もあり、その一つがスパルタでした
アテネの敗戦と黄金時代の終焉
アテネの行動に不信を抱いていたスパルタは、デロス同盟から抜け、新たにペロポネソス同盟を作ります
アテネの態度から諸都市がペロポネソス同盟に加わり、アテネとスパルタの同盟間にペロポネソス戦争が起きます
ペリクレスは、スパルタを持久戦によって迎え撃つ作戦を立て、実行しますが、おりしもエジプトなどで流行していた疫病がアテネでも流行し、その最中ペリクレスも死去します
その後、アテネはスパルタに敗北し、アテネの黄金時代も終焉を迎えます
まとめ ペリクレスについて
- アテネ市民が参加した政治体制を目指し、民主主義を擁護しました
- 富の再配分から市場による富の流通を目指しました
- 建設、芸術文化の発達を通じ黄金時代を迎えますが、その裏には対ペルシア同盟のデロス同盟で集めた資金がありました
- アテネの態度にスパルタをはじめとする諸都市がペロポネソス同盟を作り対抗し、アテネはペロポネソス戦争に敗戦し黄金時代も終わりを迎えました
感 想
ペリクレスの政治体制は、今では当たり前のように思われる民主主義の元祖にあたるものです
民衆の支持を得続けるためには、民衆を満足させる必要があり、そのために様々な改革を行いましたが、その中でアクロポリス建設などによる市民の財が潤い、音楽や劇に興じる余裕を与える必要があったのかもしれません
その財源を同盟の資金に求めたことから、諸都市の反発を招き、結果としてアテネの黄金時代の到来がアテネの終焉の原因となったと言えます